社長ブログ

今年の通信簿?

今年の通信簿?

毎年2月中旬は経団連による「経団連推薦社内報審査」の発表時期であり、社内報の発行者である私たちのクライアントにとって、そのクライアントから制作を請け負う私たちにとって1年の成績、言わば通信簿を受け取る時期でもあるのだ。

ご存じない向きには少々マニアックに聞こえると思うが、文字通り、経団連(正確にはその外郭団体だが省略)が識者をアサインして経団連会員企業の紙の社内報、デジタル社内報、映像社内報など各種カテゴリごとに審査する年に1回の社内報コンテストである。

社内報はその性格上、あまねく広く社外に出るものではなく、実は発行者のクライアントも、制作を請け負う我々も、なかなか客観的に自分たちのアクティビティを評価判断する機会が乏しいのが実情で、こうしたコンテストは受賞できたか否かも大事だが、発行そのものや編集方針を客観視できる貴重な場でもあるのだ。

とは言え、である。お手伝いしているクライアントが、錚々たるエントリー企業の中から受賞するかどうかはコンテストの焦点であるし、クライアント側も、ドキドキワクワクしながらこの時を迎えているのは否定しない。

手前味噌な話しで恐縮だが、果たして今年はなんと、当社がサポートしているうち5社が受賞したのだ。受賞の種類はここでは割愛するが、それでも評価が可視化され第三者によるコメントが付くと、非常に分かりやすいし、これまでの活動が間違っていなかった証左にもなり、何より純粋に嬉しい。

制作する私たちだけの力量ではなく、クライアントの発行の意思無くなし得ないのだが、両者の協働によって得られる達成感は社内報というジャンルにおいてはこれ以外にほぼなく、何と言うのか、1年間の関係者の頑張りが報われたように思えるのだ。

クライアントにとっても社内報を発行している広報部などは、営業や事業部と違い、実績や効果が定量化しにくく、活動に対する評価が難しいのが普通だ。こうした意味でもクライアントのコーポレート部門が然るべきところから評価を受けるのは、社内的にも有効で担当部の働き甲斐やモチベーションになっていて、その結果、私たちもこの仕事の誇らしさとやりがいを実感できるのだ。

社内報発行や制作は、パッと見は外にも出ないし地味な印象ではあるが、それを発行している多くは日本を代表する企業だし、海外での収益が大半を占めるようなグローバル企業も非常に多い。

そうした企業の従業員が身近に触れることができ、自らを知り、自らのアイデンティティに立ち返るメディアが社内報であり、それに触れることによって働く意欲や、未来を創っていく力となっているのだとしたら、私たちの仕事、とりわけこの仕事をしている当社の従業員を誇りに思い、この時期ばかりはその喜びに浸ることができる。

そして来年もと、提案者としてクライアントにワクワクを与えられるよう心新たにするのだ。

 

参考:経団連推薦社内報審査
https://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/seminar/cat8/cat1/

2024/01/30

徒然に、本の話しでも

徒然に、本の話しでも

本を読むことが最近減っていると実感している。

読み漁るように読書をしまくって来たかと言えば、そういうわけではなく、むしろ昔は好きではなかった。

むしろ、読書による知識より実体験に勝るもの無しと、ほとんど言い訳のような大義を掲げ、避けてきた口だ。
そんな中でも細々と読むこともあり、久しぶりに書棚を見てみれば、ジェフリー・アーチャー、フレデリック・フォーサイス、ジョン・ル・カレ、サマセット・モームと、偏り過ぎたジャンルであり海外モノが多いことに少し驚くが、まさに散読そのものだ。

最近でこそ偏り無く、売れている本や、読んでいないのはちょっと恥ずかしい、といった類の本も読むようになったが、中でも一番ハマり、本を読むことは楽しいことだ!と教えてくれたのが、高村薫だ。もとい、高村「先生」だ。

初めて触れたのがもう30年近くも前になる「レディ・ジョーカー」だ。

日本人離れ?した大がかりなストーリー構成、膨大な時間を費やしたであろう綿密な取材に裏付けられた時代性、そして硬派で胸に染み入る文体など、時間を忘れて読み入った経験も生まれて初めてなら、同じ本を立て続けに3回読むのも初めてだった。何と言うのか、自分にとっては何かあったら立ち返る本となっていて、通算で何度読んだかは覚えていない。

そこからこの方、先生の本は短編を含め全て読了している。

僭越ながら先生の文体も思考も、それに伴う作風もどんどん変わっていき、その都度刺激をもらっているが、時代を象徴する、つくづく考えさせられる事件や災害」をモティーフにしていること、そして主役はもちろんのこと脇役までの登場人物1人1人のキャラクターを直接的、間接的に丁寧に描写しており、人は生きていること自体が尊いとする、先生の人間に対する暖かい眼差しを感じることができる。

その一方で、人の性でもる生々しい業や息遣いや切なさをノンフィクションさながらに表現している点が、全作を通じて変わらず貫かれていて、そこに魅かれ続けているのだ。

ある時期は「先生、混迷の時代に入ったのかな?」と素人でさえ感じてしまうほどの難解な文体で、誤解を恐れず言えば読み進めにくく全体感が掴みづらい作品もあるが、それでも私にとっては得るものの多い書物・作品であるのは間違いなく、まだ触れたことのない方には全力でおススメしたい作家なのだ。

2024/01/18

2023年の振り返りと2024年の展望

2023年の振り返りと2024年の展望

皆さま新年あけましておめでとうございます。旧年中は関係する皆さまには格別なお引き立てをいただき、厚く御礼申し上げます。本年も皆さまのお役に立てるよう尽力して参りますので、引き続きよろしくお願い致します。

前年踏襲型ではありますが、今年も昨年同様のタイトルと内容で今年初めてのブログを書きます。

昨年当社にとって一番のトピック、ことに社内における話し、は当社の新VIとスローガンの制定でした。社外の方も目にするという意味では、「社内の話し」だけではないのだが、当社におけるインターナルブランディングの側面も大きく(というか私自身が意識したということ)、あえて社内での一番のトピックと書いたのである。

紺屋の白袴にならぬようと心に決めながらも、なかなかどうして自分たちの会社のことが一番道半ばで終わったしまった1年であったと反省も。一言でいえば、やり切れなかったに尽きると思うので、今年は細かいところを厭わず口や行動で表現しようと思うのだ。

もう1つは少々抽象的な表現だが、クライアントをワクワクさせられたか、ということだ。
話しは少し飛ぶが、去年のある時、自社で制作した某クライアントの大きなコンペの提案書を目にする機会があったのだが、これが何と言うのか、自分で言うのも憚られるし、逆に何を今さらと言われるかも知れないが、非常に素晴らしいプロポーザルだったのだ。

クライアントのRFP(要件定義や与件)に沿った、スキが無く、しっかりとロジックに根差した説得力もある提案で、古くから在籍する私としては感慨深くさえある本当に完成度の高いものだった。が、このコンペ、負けました。
なんでだろう?私が提案書を目にしたのは、結果が出る前。その時、実は2度読みしたのだ。その理由は、完成度も高いし腹落ちもしやすいしRFPにも沿っているけど、何かが足りていない?が浮かぶから、だったのだが、2度読みして感じたことが冒頭のワードだったのだ。

「素晴らしいけど、トキメキ的なモノあるかな?」と。負けの理由も後日聞くこととなったのだが、それがその「ワクワク・トキメキ」に似たようなニュアンスだったのでなおさら、クライアントも似たような感情を抱いたのかも知れないと思い至ったのだ。

私自身もこれまで多くのコンペに参加し、勝ちも負けも経験して得た教訓や答えは、コンペは結局のところ水物だし正解は無い、ということ。でも経験を積んでいくうち、立て板に水が如く、ロジカルに流れるような何なら格調高い提案は達成感も大きいし、それによって提案する私たちの格が上がるような高揚感を得られるのだが、同時に、理屈や格だけじゃない右脳で「感じてもらう」提案も必要であることを知るのだ。

つまり、私の頭に湧いた足りない何かも、判断するクライアントの側も、きっと言語化できない「何かを感じた」のだろう。そしてこの「何か」がきっと、理由の無い「楽しそう」「良いな」という、ワクワクやトキメクの正体なのだろう。

具体的にそれが何かは状況やコンペによって様々変わると思うが、「私たちならこう考える」とか「こうした方が良い」という、クライアントをアッと言わせたり、そう来たか!と思わせる、私たち提案側の意思や感性を可視化することではないだろうか。

結局は、こうしたある意味想定外の提案を受けることで、心の揺らぎが産まれワクワクが創り出されるのだとしたら、今年の私たちは今一度コンペのイベント性や醍醐味を思い出して、想定外の面白さやといった提案で、クライアントの心の揺らぎをたくさん作っていきたいと改めて思うのだ。

そんなマインドセットでこの1年取り組んでいくつもりですが、果たして吉と出るか凶と出るのか?それは前述の通り、正解や答えの無いコンペのこと、結果は神のみぞ知るということでしょうか・・・。

2023/11/28

1年に1度のありがたさ

1年に1度のありがたさ

一年に一度、伊勢神宮に参拝をするのがこの7年のルーティンである。初めて参拝に訪れたのが2017年なので、今年で7回目を数える。特に信心深いわけではないし、寺社仏閣やその歴史に明るいわけでもないが、あるきっかけから始めた参拝は毎度、7回目の今回も、少しだけ特別な参拝法と相俟って心が洗われる思いだ。

良く知られた話しではあるが、伊勢神宮に限らず神社には何かをお願いするために上がるのではなく、お礼、感謝を述べるために参拝すると言われる。

自分で書くと何とも面映ゆくてキレイごとのよう聞こえるのだが、私が参拝に行っているのも、また今年も会社が継続できています、ここに来ることができました、健康でいられます、のお礼をしに行っているだけなのだ。ただそれだけ。でもそれで十分だと思っている。

参拝に大きな意味を見出す必要もなく、何かに必要とされ、何かによって生かされていることを、年を重ねることによってより感じるのか、自分がいかに恵まれ、それだけでありがたいと思え、それをお礼しに行くだけ。でもこうしてあまり構えることなく、信心深くもない男が気楽にお礼を述べに行ける参拝は、きっと日本のおおらかな信仰感にもマッチしているだろうし、神道も仏教も他の宗教も共存できている国ならではのスタイルなのだろう。

もちろん鷹揚に受け入れられていると感じながらも、私もできれば静謐としていて凛とした空気感を味わいたいので、8時には外宮に向けて出掛けるようにしている。さすがにまだこの時間であればそれほど混んでいないし、砂利を踏む自分の足音も心地よく聞こえてくるので、雰囲気に浸りたい場合は早めの朝がおススメ。

ついでに門前の赤福内宮前店も、午前中であれば空いているので座って「盆」(赤福+番茶のお盆)も楽しめるからなおさら。参拝が終わると、今年も参拝できたことを皆さまに感謝、そして翌年もここに来られますよう日々真剣に生きていこうと、不思議なもので本当に感じるのだ。

 

言わずと知れた人気スポットではあるが、皆さんも毎年お礼をしに伊勢に運ばれてはいかがか。

2023/10/30

人の振り見て我がDX進めろ?

人の振り見て我がDX進めろ?

何かに病んでかかっているわけではないのだが、某大学付属の大病院で1年に一度「経過観察」として検査を受けている。初めて診てもらったのが、コロナ禍真っ只中の2021年の秋。ほぼ病院のお世話になることがないわたくし、病院ネタはほぼアップデイトできていないので今や当然なのかも知れないが、あらゆることがデジタル化され、『大病院イコール時間が掛かる』の図式が半日で見事に覆されたのである。

初診は問診、診察カードの発行があるのでさすがにここは人が関与するのだが、再診においては受付、診察、会計、支払が全てデジタル化され、それゆえに全てがシームレスに繋がって、時間がほとんど掛からないのである。

システムや機械で代替できるところは代替され、人にしかできない医療の部分はしっかりと人の手が残っているという、ちゃんとメリハリが利き、ビジネスなり経済原理も働いているようで感心させられた。

でも本当は、スムースなのはコロナ禍で患者数が少ないから?という見立てもしたのだが、今年改めて行ってみると、スピードはこれまで通り。患者数が通常に戻った今も、しっかりとデジタルが機能していて、新しい病院の姿を実感したのだ。

しかも、この1年でアプリも導入されたようで、診察カード代わりのQRやクレジットカードへのヒモ付けなどで、診察後は会計と支払いが不要でそのまま帰れるという、さらに時短が図れて利便性が上がっていたのだ。

 

病院DX、恐るべし。

 

こうした日常でDXによる利便を実体験すると、行政サービスなどは一体どうなっているの?と嘆きたくなるのだが、それはまた別の機会として、まずは我がこととして自分たちの仕事や会社においても改善の余地は多いなと感じるものである。メリハリあるDX、つまり人手とデジタルの最適な使い分けは、労働集約型の当社のような業態に本当は一番有効なのかも知れず、もはや「人がする仕事だから」を言い訳にしてはならないのだろう。

2023/09/12

1000キロのグランドツーリング

1000キロのグランドツーリング

仕事ではあるが、ここのところ最新のEVに乗る機会が増えている。先月も最新ドイツ製高級EVを用いた雑誌のタイアップ企画に立ち会ったのだが、そのEVの一番のセールスポイントは、航続距離。EVといえば当然動力や操作のすべてを電気で賄うわけだが、搭載する電池容量の大きさによって満充電で走れる距離も大きく変わってくるのだ。

例えば、20kwの電池であれば180キロ、60kwの電池であれば400キロといった具合で、各社が公表する航続距離は必ずしも一様ではないものの、容量と距離は比例して増えていく。

前置きが長くなったが今回のドイツ製最新EVは、搭載電池の容量が100kwとこれまでで最大の容量を誇り、航続距離も700キロに届かんというモデル。そこでその訴求ポイントを実証しようというのが、東京から富山までの約500キロのグランドツーリングという企画である。

航続距離はともかく、この500キロにおよぶロングドライブで何が一番印象的だったかと言えば、疲労の無さ、である。某社謹製の上位モデルだから、自動運転もとい優れた運転支援システムがあるから、などなど理由はいくつもあるだろうし、それは確かにそうだろう。

でも改めて感じたのは「音」だ。そう、ほぼ音がしないのだ。

正確には音の記憶が無いのだ。当たり前だが内燃機関特有の唸りも、マフラーから出る排気音も無い。聞こえてくるのは微かに聞こえる車体の風切り音とステレオからの音楽だけ。音による疲労は何となく想像に難くないと思うのだが、何時間もそれなりの音にさらされるクルマのロングドライブにおいて、音から解放されることがこれほどの疲労軽減につながるのだと、身を以て実感させられた。


時間にして4時間少し。トイレで停まった以外はいわゆる休憩無しのこの時間は、快適の一言。体感としては、え?もう富山?が本当のところだ。自身、4年ほど前に金沢までクルマで行った経験があるが、富山と金沢の違いはあるとはいえ、疲労の大きさは比べものにならず、これは誇張なく、充電さえ考えなければ片道500キロくらいであれば日帰りも十分可能なクルマだ。

最新の高級EVは、必要な時に必要なだけスピードが出て、運転支援システムで巡行でき、その上静かで、控えめに言って「高速道路最強」じゃないかと往復1000キロにおよぶグランドツーリングを通じて実感した。

もっとも、大容量電池であっても短時間で充電できる「急速充電器」の必要性や、そもそも充電スポットの数の拡充など、メーカー各社だけでない行政レベルで取り組むべきインフラ整備に大きな課題があるのは事実だ。

が、2日間に亘ってEVと付き合ったが、内燃機関ノスタルジーだけじゃ分からないこと、そして旅の手段としてこれも選択の1つだ、ということ。新しいことは、まずは体験することが肝要だ。

もっとも、この経験を富山出身者に話したところ、「新幹線なら2時間ちょっとで富山だよ」と身も蓋もないことを言われ、その速さに驚くとともにまず経験すべきは北陸新幹線で北陸に行くことか?というオチもついた。

果たしてEVは新たな旅の選択となり得るのか、いろいろと考えさせられた経験であった。

2023/07/31

2040年の衝撃

2040年の衝撃

とある勉強会に出た際、講師から教えてもらったレポートをダウンロードして読んでみた。それは、2040年の日本における労働環境を中心とした国内の社会状況を予測したレポート、そこに記載されていた「予測」が、現実を知らされたという意味で、なかなかに衝撃的であった。

非常に乱暴に一言でまとめるなら、労働力が日に日に減っていく日本において個人の働き方やその意識だけでなく、ルールを整備する側(行政や企業側)の思考も大きく変えていかないと、いろんなものが立ち行かなくなるというモノ。人口動態をベースとして予測をすれば、2040年時点で社会における労働需給ギャップは1100万人を超えるというもので、これだけの労働力(働き手のこと)が必要だ、と言っている社会において1100万人分の供給が不足しているということ。これを単純計算すると毎年島根県の人口(約66万人)くらいの労働力が減っているのが実態で、実際に数字を置かれてみると深刻さが理解できる。

現在当たり前と思っている社会生活維持のための労働力さえ不足しかねず、すなわちモノの配送、ゴミの収集、災害からの復旧、介護サービス、警察による治安維持などを指す、インフラと呼ばれるような仕事においても労働力の不足は明らかだと言う。

もちろん、根っこにあるのは少子高齢化に尽きるのだろうし、それは何十年も前から分かっていたにもかかわらず、課題に向き合わず先送りしてきたツケであることは言うまでもない。何せ17年後である。

17年後に急に1000万人を超える労働力が足りなくなるわけではないが、それにしてもすぐ過ぎやしないか17年なんて、とちょっと考えさせられた。レポートではこうした実情を知ったうえでの解決提言もしていて、何かできることは無いかと感じた。

その1つが、「徹底した機械化と自動化」である。自分たちの仕事に置き換えたとき、何が自動化できるだろう?ということを真剣に考えなければならないのだろう。私たちの仕事は労働集約型ゆえ、人による労働力は何物にも代えられない、と凝り固まってはいられないのである。

100%機械化、自動化は無理だとしても、意識しなければならないテーマだろう。もう1つが、社会に対して自分の行動や思考が何らか機能・作用しているような活動というもの。分かりにくいのだが例えば、自分の健康維持のためにランニングやウォーキングをしている人が多いが、ランをしながら地域を見守るパトロールの取り組みに替えるといった取り組みは、趣味が社会の何かに作用(貢献や機能とも)しているわけで、こうした共生や互酬が労働力不足を解消する1つになり得るという策だ。趣味と実益を兼ねて、ではないが、自分の楽しみのための活動が実は社会の何かに役立っている、といったことは意外にあるのかも知れない。

ここに報酬が要るのは確かだが、報酬はなにも経済的なそれだけでなく、心理報酬や社会的報酬などもあるようで、何となく社会主義っぽくもあるけど、労働力が決定的に足りない現実ではやむを得ないのかも知れない。

15年後の自分は72歳、まあこれもビックリではあるが、その年齢で社会生活を維持することさえままならないのは、さすがに忍びないと感じる。ルールを作る側としての企業の人間として、時短やリモートワークといったことではない、構造的な働き方や労働の再定義が必要だと、このレポートで思わされたのだ。

さて、何から手をつけるべきなのだろうか??

2023/06/20

シン・マイコミュニティは突然に!

シン・マイコミュニティは突然に!

最近同年代の仕事仲間や友人と話しをしていると、「仕事(会社)以外のコミュニティを持つことについて」が話題に上ることがある。皆一様に、仕事引退後のことを考えているわけでも、仕事に病んでいるわけでもないが、言葉の端々にどこかに、おぼろげだけどあると良いなと思っていた節があると感じ取れる。それは自分にとってもそうで、何かあるかな?と考えていたところに、意外に身近でそして意表を突く格好で現れたので書こうと思うのだ。

趣味と言えるか分からないが、休みに何をしているかと問われれば、ジム通いとちょっと旧いクルマにハマる、くらいだろう。中でも、ジムは通い始めてかれこれ7年8年。当然だが目標や、使命があるわけではなく、ぼんやりとした始まりだったが、やり始めてみれば、自ら決めたルーティンを自分のために完遂できる自分がいることに気付いたり、トレーニングとはフィジカルのそれというよりメンタルの鍛錬だ!と妙に納得したりなど、新しい自分発見も含め、よもやここまで続くとは想像もしなかった。

ただジムに通ってからここまでを振り返ってみると、一人黙々とルーティンに勤しむほかは、会員さんと接点ができたわけでも、誰かと会話するわけでもなく、もちろんこれに不満があったわけではないが、淡々とした毎度同じような週末の繰り返しだったと言える。

飽きずによく続くものだ。ところがそんないつもの3月下旬、同じスタジオプログラムを受けている一人に声を掛けられたことをきっかけに、状況が一変した。声を掛けられたも何も、「どうもこんちわ~」の文字通りの一言だったが、以降、まるで確変に入ったかのように次々といろんな会員さんに話し掛けられるようになり、名前を知り、言葉を交わすようになり、果てはLINEグループに誘われ、飲み会にも呼ばれと、過去7年8年の一人黙々状態は何だったの?と思うほどの変わりよう。

あれよあれよとジムにマイコミュニティが生まれたのだ。どちらかと言えば、こういう仕事以外の人の集まりなどは面倒で避けて通ってきた方なのだが、お誘いがあったとは言え、すんなり誘いを受け入れた自分の変化に戸惑いつつ、経験しないと分からないことはまだあるものだと実感もしている。

性別も、年齢も、仕事も、価値観もバラバラだけど、強制もしなければされもしない気楽さや、消費者の肌感覚のようなものを直接見聞きできたり(やや仕事っぽいけど)と、普段の仕事生活だけでは得られない発見も多い。

もっとも、こうしたコミュニティなど無くてもジムライフは送れる。そんなものはむしろ邪魔だと感じる向きもあれば、そして私自身もそうだったが、コミュニティが無くてもジムライフなど継続はできるだろう。

ただ、無いと困るものではない一方で、あると楽しさが広がるのは確かで、それが役立とうが立たなかろうが関係なく、人とのコミュニケーションは悪くないと感じることができる。この3年あまりですっかり人とのコミュニケーションが希薄になってしまった感があるが、リアルな接点は、リアルならではの良さで、人は結局こういうものが必要なのだと思わされるのだ。

では結局のところ、自分は何らかのコミュニティを欲していたのか?という点だが、それはイエスだ。それは、ジム通いを続ける理由などではなく、自分の日常で接点がないであろう人たちと知り合い、話し、知らないを知ることができる、普段とは違うコミュニケーション体験ができるという意味で、イエスなのだ。

少し面倒くさいと思えることも、実際にやってみると違う景色が見えるかも知れず、皆さんも仕事(会社)以外のコミュニティに、機会があればあえて飛び込んでみては、とおススメする次第だ。

2023/05/16

実験的な試み

実験的な試み

このところ目にしない日や、聞くことのない日は無いとも言える生成AIの存在は、私たちのようなコンテンツを産み出すような業界にとって当然他人事ではない。生成AIの出現によって大きな脅威を感じる一方で、新しい技術から逃げずに共存することが、今後の発展につながると考えている。むしろ、そのAIが生成するコンテンツのクオリティを見れば、この大きなうねりに抵抗することなどできないのかも、というのが本当かも知れない。

生成AIによって自動生成されたコンテンツには、人間が生み出すことが難しいほどの効率性や多様性がある。その反面、人間が持つ創造性や感性といった要素を完全に取り入れることはできないとも言える。つまり、AIができることと人間ができることは異なるということ。この理解をベースにすれば、AIの能力を最大限に活用し、それを人間が補完することで、より高度なコンテンツをアウトプットできる、とも言えまいか。こうして書いていて何だが、AIが主で人間が従という関係に違和感を覚えなくもないのだが、実際そうなのかも知れない。

生成AIの裏側で動いているロジック開発に携わる人や、ブロックチェーンやNFTといったweb3.0+テック系の仕事に関与する方々と最近会って話しをする機会があり、正直言えば話しの3割くらいはついていけなかったものの、社会はきっとこんな風に見えないところで変革が始まっていて、現象として見える時点ではすでに違うフェイズや時代に移行している、ということを目の当たりにしたように感じ、大きな刺激を受けた。当然ながら現状、生成AIと自分たちの仕事がどう融合し、それを使いこなせるか否かの答えは無い。それでも歴史が証明する通り、過去の実績やこれまでの成功体験にしがみついたまま生き残ってきた企業や業界は無いのも事実だ。容易ではないが、来るべき将来に向き合い新しい技術を躊躇なく取り入れていく気概こそ、こうした時代の転換期には求められると、自らの戒めにしたい。

参考までに今回のブログは、タイトルの通り実は自分なりの「呪文」をAIに投下して生成された文章をベースに加筆修正するという、実験的な試みをしたことを記しておく。ブログ全体の構成そのものはいじる必要がないと感じたため加筆修正に留めたが、自ら手を入れたボリュームはザっと6割くらい。コンテンツの質は「呪文」次第であろうし、人の温度感や個人の嗜好といったものはまだ十分ではないかもと感じた反面、いわゆる有料版で個人の書きぶりや価値を学習させ、適切な呪文を入れられれば結果どうか?と想像もしてみた。たぶん、それなりの感性をもって生成されるだろうと思うと、ヤバいの一言だ。

2023/04/19

新しいVIに込めた想い

新しいVIに込めた想い

今年の4月1日、当社は35周年を迎えた。35年前に丸紅株式会社が100%出資して設立された後、2006年に丸紅からのMBO実施を経て今年を迎えるわけだが、世に言われる企業生存率などの話しは横に置いたとして、35年に亘って会社が継続してきたことは喜ばしいし何より誇らしい。またこうして35周年を迎えられたのは多くの先達の高い意識や奮闘無しには語ることはできず、ここに敬意と感謝を表することを忘れてはならないと思う。ありがとうございました。さらに長寿でかつ、いつまでも若々しいマインドの会社として発展させ続けていくことが、それに対するご恩返しだと改めて感じる。

周年を機に当社のブランド・フィロソフィを明文化し、当社にとって初めてのコーポレート・スローガンを制定するとともに、VI(visual identity)も刷新した。いわば、当社のブランディングだ。これまでのアセットは大事にしつつ、新しい「りえぞん」を目指すという、どちらかと言えば未来志向な意思を表現できたと思っている。
(参照)VIの刷新について

周年を機に、というのは実は今回ブランディングをする際の2つの理由の1つであり、もう1つの理由は社内に向けて、でもあるのだ。私たちの仕事は今や平面から立体からデジタルまでと広範に及び、そのいずれもがクライアントのブランディングに関与している点、そのエンジンを担っている点は共通していると言えるが、広範ゆえに社内の共通言語としての自らのアイデンティティを明確にする必要があった。しかしながら、そうかな?と感じつつも、いずれ、という言い訳で後回しにしてきたのが実態だ。MBOをしたころから見ても会社の規模感は4~5倍へと成長し、仕事の幅や社員のスキルなども当時とは比べ物にならないくらいのレベルにはあるのだが、さらに未来に向けてワンランク上の企業を目指そうという意図もあり、いよいよ自社のブランディングと相成ったわけである。

ブランディングおよびアイデンティティの確立は従業員参加型のボトムアップと、主として経営層が決めていくトップダウンの2つに大別されるが、今回はそのどちらでもなく、ハイブリッド(半分社内半分社外の方々)なスタイルでのぞんだ。社外取締役を中心としてクリエイティブチームを組んでもらい、取締役という内なる理解に加え、「外から見た当社の姿」(より客観的な視座の意)という視点を取り入れたいと思ったためである。

なぜならそれは、自らの意思や想いは語りつつ、そこに重心を置き過ぎると成果物が変わり映えせず、クリエイティブジャンプに限界もあるだろうことが想定でき、あえてハイブリッドな方々の見方によって「これまでと違う」アウトプットができると思ったためである。

クライアントのビジョン、スローガン、新VIといったブランド・エレメントを作っていく過程をサポートしてきたが、自分たちのブランドがカタチになっていくのは、こういう気持ちになるのだと初めて知った。それは、照れくささと同時に、純粋に嬉しく誇らしい気持ちだ。言うまでもなく、ブランディングとはブランドの「ing」。エレメントを揃えてお終いではなく、ここからがスタートで、常にingでなければブランドはブランド足り得ず、それが織りなす世界観も醸成できない。まずは自分が率先して、照れずに斜に構えることなく、ブランドを体現しなければと思う。クライアントのブランディングを担う者として、従業員1人1人も共に自らのブランド体現者になってくれれば喜ばしい限りだ。